山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼181号「富士山・聖徳太子と黒駒の伝説の碑」

【概略】
「聖徳太子絵伝」などにある聖徳太子と富士山に関わる伝説。旧登
山道の富士山五合目佐藤小屋上の経ヶ岳、八角堂わきに聖徳太子と
黒駒の碑がならんでいる。それには推古天皇六戌午年、秋九月…の
文字が彫られ、黒駒の碑も建てられており、静かな中に花が供えら
れてあった。

▼181号「富士山・聖徳太子と黒駒の伝説の碑」

見たこともないのにその形を絵に描け、登ったこともないのに高
さも知っている富士山は不思議な山です。その富士山に吉田口か
ら登るには、おおむねスバルラインをバスでのぼり、新五合目か
ら山頂を往復します。

昔の登山道吉田口から五合目佐藤小屋経由は、冬に雪上訓練に登
る人たちだけです。その佐藤小屋上の経ヶ岳には八角堂があり、
わきに聖徳太子と黒駒の碑がならんでいます。聖徳太子が黒駒に
またがり、天空を飛び富士山頂に降りたというのです。

平安時代前半の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』(藤原兼輔撰との説
あり)延喜17年(917)にはおおよそ次のように書かれています。
推古天皇6年(598)聖徳太子25歳の時、善い馬を求めよとまわ
りの者に命じました。

太子は、諸国から集められた馬の中から烏のように黒く、脚だけが
白い甲斐の国から献上された馬を指して「これは神馬である」とい
い、残りの馬はみんな戻させました。

同年9月、太子はこの馬に乗って雲に浮かびあがり、調使麻呂とと
もに東の方へ飛び去っていきました。そして3日後に太子と調使麻
呂が帰ってきて左右のものに語るには「私はこの馬に乗って雲を踏
み、直ちに附神岳(富士山)の上に至り、転じて信濃の国に行き、
越の国を経て、今帰って来た」とあります。

また平安時代後半の「聖徳太子絵伝」延久元年(1069年)秦致真
(はだのちしん)にも、太子27歳のおん時とした上で「甲斐の黒
駒に乗り、3日3夜日本国を見廻るため、虚空を飛び富士山に到
り給う…」とあります。

この書はさらに「富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給。善光
寺如来、地より出給て、太子共に語う。日本国の神々に合い奉て、
物語し給しを、雲上記として十二巻、天皇に奏し給。…うんぬん…。

さて、太子、黒駒に召して、日本国を三日三夜に廻りご覧せられ
けるに、大峰の善鬼も召出されて、山内の有様ども、御尋ありけ
り。富士山計こそ、馬の足には触りけり。其外は虚空をこそ、黒
駒、雲に乗て飛行しけり」つづきます。

この記述にちなんだのが、八角堂わきの聖徳太子の石碑。推古天
皇六戌午年、秋九月…の文字が彫られ、ならんで黒駒の碑も建て
られています。夜はライトがつけられ、にぎわう登山道にくらべ、
ここ八角堂はまるで別天地のようです。

静かなか、石碑の前には花も供えられてありました。ちなみに八
合目の山小屋その名も太子館には、『聖徳太子絵伝』の記述にちな
んだ「太子冨登嶽之図」がかけられ、聖徳太子を祭ってあります。

▼【データ】
【所在地】
・山梨県富士吉田市。富士急行富士吉田駅から歩いて6時間で五合
目佐藤小屋、15分で経ヶ岳。
・現地に三等三角点(2386.1m)がある。周辺に姥ヶ懐、八角堂が
ある。
・地形図に三角点の標高のみ記載、山名なし。付近に何も記載なし。

【位置】
・三角点:北緯35度23分8.42秒、東経138度44分52.22秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「富士山(甲府)」or「須走(甲府)」(2図
葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)。5万
分の1地形図「甲府−山中湖」(「電子国土ポータルWebシステム」
から検索)

【参考】
・「聖徳太子絵伝」:「日本架空伝承人名事典」大隅和雄ほか(平凡
社)1992年(平成4)
・「日本山岳風土記・3」(宝文館)1960年(昭和35)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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