▼366号「富士山・聖徳太子登山姿画」
・【前文】
聖徳太子が馬に跨り空を飛び、富士山に降りたという伝説。五合目
の佐藤小屋上部の八角堂わきには黒駒と聖徳太子の石碑。富士山八
合目の山小屋その名も太子館には、『聖徳太子絵伝』、『扶桑略記』
などの記述にちなんだ「太子冨登嶽之図」がかけられ、聖徳太子を
祭ってある。
・【本文】は下記にあります。
▼366号「富士山・聖徳太子登山姿画」
【本文】
富士山にはさすが面白い話がたくさん残っています。飛鳥時代、聖
徳太子は全国から献上された馬の中から甲斐国から献上された足だ
けが白く、体がまっ黒な馬を選び出しました。太子がその黒馬にま
たがってひとムチあてると、馬は宙に舞い上がりました。
「聖徳太子絵伝」という本には「二七歳御時(25歳の時(西暦598
・推古天皇6年9月)とする説もある)、甲斐黒駒出来(いできた)
る。調使丸舎人、異国御舎人として、九月に之に乗給。天皇に暇を
申て三日三夜に、日本国を廻見給。…調使丸を轡に之を付、虚空を
飛て、富士山に到給。……富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給。
善光寺如来、地より出給て、太子ともに語う。日本国の神々に合い
奉て……」とあり、黒駒に乗って富士山に舞い降り、国中の神と会
ったことを手記にまとめたとしています。
また、室町時代の「富士山縁起」には、「…亦聖徳太子四雪駒ニ乗
リ、禅定有リ。諸神諸仏御迎エニ行向シ給フ。山ノ気色御給フニ、
皆吠瑠璃瑪瑙、霊勝八葉ノ花臺、平地ヲ見ル如ク、中ニ霊窟有リ、
獅子王ノ如シ。口ハ巽ニ向テ開キ、其口穴ヨリ巌内ニ入ル。遙カ下
レバ大河有リ、巽ヨリ乾ニ流ル。岸皆金山也。河過ギ行ケバ、二階
層級ノ王門有リ。うんぬん」とあります。
要するに、太子が黒駒に乗り、空を飛んで富士山頂に来てみると、
大きな岩穴を見つけたというのです。下降してみると獅子が口を開
けたような形をして巽(たつみ・東南)方向に開いている。中に入
ると大きな河があり巽から乾(いぬい・北西)に流れています。
川岸は金で輝いている。なおも進むと金銀で輝く楼門があって毒蛇
や竜がいる。さらに進むとまた楼閣があり、左右には2匹の竜がい
る。太子はそれをなだめて馬を急がせた。奥に入ると池があって、
その中央に大岩がありる。
そこには両眼が太陽や月のように輝く大蛇がいる。舌が剣のように
鋭く、口からは火焔を吹き出している。太子はこれを山神だと見抜
いた。太子はひざまずいて「私は人々のために力を尽くそうと思っ
ています。正しい政道のあり方をお教え戴きたいのです」といった。
すると大蛇は大日如来になって現れ、政道のあり方や人倫の道を説
いて授け、その役割を太子に命じたというようなことが書かれてお
り、岩穴の中で大日如来と会ったとしています。
この甲斐の黒駒については、柳田國男も「山島民譚集」のなかで、
「…或ハ又秦川勝(ハタノカワカツ)ガ黒駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡
国ニ随イマツリシ由…(花鳥余情)」として触れています。
これに関して五合目の佐藤小屋上部の八角堂わきには「推古天皇六
年秋九月、黒駒に乗りて登る御年廿五」と彫られた黒駒と聖徳太子
の石碑があります。
また八合目の太子館は聖徳太子を祀り、「太子冨登嶽之図」も掛け
られています。そんなことから富士山頂も人があまりいない白山岳
あたりに行くと、いまにもどこからか黒駒に乗った聖徳太子があら
われかも知れないと思えたりします。
▼五合五尺経ヶ岳(聖徳太子碑)【データ】
【所在地】
・山梨県富士吉田市。富士急行富士吉田駅から歩いて6時間で五合
目佐藤小屋、15分で経ヶ岳、八角堂、聖徳太子碑。三等三角点(23
86.1m)がある。地形図に三角点の標高のみ記載、山名なし。付近
に何も記載なし(佐藤小屋の文字もなし)。
【位置】
・三角点:北緯35度23分8.42秒、東経138度44分52.22秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「富士山(甲府)」or「須走(甲府)」(2図
葉名と重なる)
【山行】
・某年7月16日(日曜日・雨のち晴れ)旧登山道から富士山山行
時探訪
【参考文献】
・「富士山縁起」:「山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集(1)」
五木重編(名著出版)1983年(昭和58)
・「富士山・史話と伝説」遠藤秀男(名著出版)1988年(昭和63)
・「日本架空伝承人名事典」大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・「日本山岳風土記3・富士とその周辺」(宝文館)1960年(昭和35)
・『柳田国男全集5』柳田國男(筑摩書房)1989年(昭和64・平成
1)
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